臨床衛生検査技師会と私

山中 亨

【臨床検査技師への道】

 2002年3月末、通算39年間勤めた病院を定年退職した。現役を退いて6ケ月が経とうとしている今、稲垣広報部長より携わった技師会活動について書くように言って頂いたので、振り返ってみたいと思う。
 定年を迎えて、後任者に引き継ぐようなことは管理職の心得ぐらいであった。ただ多くの果たさなければならない課題があることを語った。検査技師を目指す前にはいろいろな職業について考えた。今それらにこの40年間を連結していたらどうだったろうかと、この原稿を書くに当ってキーボード上の埃を払いながら、一頻り考えていた。そしてこれまで歩んだこの道が自分に与えられた、所謂生きる道であったことを確認した。そのことを感じさせる最も大きな因子は、病院というそれまで全く考えていなかった職場に、引き寄せられたことである。
 師に恵まれ、同期に恵まれ、ハード面ソフト面での環境に恵まれたという感慨が強い。そして与えられたチャンスには素直にチャレンジしてきたと思う。

【衛生検査技師】

 初めて検査を担当した頃は、検査を行うといっても種類や項目は今と比べればはるかに少なかったし、ベッド数60床くらいの病院では全ての項目に手を出さなければならなかったが、一人の患者さんに付いて依頼されている全ての検査を知ることが出来て情報も多く、大いに役立った。
 すべての臨床検査がマニュアルで処理されていた頃、外国では自動分析装置が出来たらしいということを小耳に挿みながら、検体検査のデータ解析まで含む自動化の夢を描いた。そして患者さん毎に診断と治療効果判断の上で使い易い形に整えて、主治医のところにいって説明する姿を夢みていた。勤めた病院がまだ小さな病院であった頃のある時、依頼箋をもって、「]病棟のAさん、白血病ではないかと思うのだが」といって、医師が訪れた。早速メランジュールと血液希釈液、耳朶穿利用メス、スライドガラスや血液標本用の引きガラスなどを携えてベッドサイドへ行って採血を行い、検査室へ帰って染色後、血液標本を医師と代わる代わる覗いては、印象を話し合った。すベての医師がそうであったわけではないが、検査を受け待つということの意味の大きさを認識した。

【衛生検査技師から臨床検査技師へ】

 生理検査を担当する者の兼ね備えるべき知識と技術を求めて臨床検査技師法が制定されたが、専門学校出身者が十分多くなく学佼でもこの分野の教育が充実していた所は少ないと考えられた。当院では関所当初から積極的に生理検査を手掛けていたが法的裏付けが出来てうれしかった。只、衛生検査技師時代の多くの技師は検体検査への執着が強くて、なかなか生理検査に飛び込めなかったのではないか、技師の将来展望についてやや甘いところがあったのではないか、と思えて仕方がない。私自身の反省はこのことをもっと強く多くの施設の技師に語りかけるべきでなかったか、技師会活動の中で拡大承認された業務を取り込むことを啓蒙してきたが、もっと大きな声で、力で訴えることが出来なかったかと考えている。

【技師会員として】

 昭和43年に技帥会に入会した。当時の会員数は分からないが現在の1/3程度ではなかったかと思われる。 この年よろづ相談所病航で系統的に電気生理講座を開いたことは印象深い。そんな中で会員として最も心に残ることは学会発表である。研修会、講習会、講演会、学会発表で全国各地を訪れたことが、学会場との往復ではあったが今は懐かしい。一年一回は発表することを最低ラインとして設定した。新任の頃は呼吸機能を勉強するため、年2回東京で開催される医師主体の肺気腫研究会に良く参加した。またセミナーに6年間毎年参加した。当時はまるまる1週間の講習で缶詰状態であった。
 学会発表のテーマは業務上、診断に直結し効果を発揮する何容のものを特に選んでいたと思う。開設間もない病院における一分野の検査に責任を持つということは、大きな負担であったがそれなりに収穫も得ながら臨床側からも認知されていたと自分では考えている。ただ診断ロジックの構築という大きな構想の最後まで到達できなかったということを、職場に対してお詫びしたい。これは後に続く人達が成し遂げてくれるものと期待している。検査データだけは開所以来”クリヤーなものを残す”という心がけで成積管理につとめて来たから大丈夫と思う。

【検査技師会役員として】

 昭和53年のことであった。技師会活動を積極的に堆し進めておられた一人の技師会役員の方が私の勤める病院へ来られて、部長と私に向けて技師会への参画を求められた。上司の承認と職場の同僚からも協力の声を開いて、頑なであった気持ちも一転させて参画することにした。
 その年から16年間奈良県技師会の学術担当副会長を、その後8年間会長を勤めさせて頂いた。自動的に24年間近畿臨床衛生検査技師会の理事として名前だけは連ねていたが、最後の4年の2年は副会長もう2年を会長という重責を頂き活動した。また昭和63年から10年間日本衛生検査技師会の「金井泉賞」選考委員を経験した。最後の2年間はその委員長として責任を果たせたことは、ホットすると共にチャンスを与えられたことに感謝している。
 昭和53年度より当会の学術担当副会長を務めることになった。以来8期16年間の任務の中で最初に取り掛かったのは、学術部長の立場もあって奈臨技学会を開催したことである。当時はまだ全国学会へどんどんという風潮もなかった。一つには若い人達が一気に全国学会ということも難しいことが予想されたため、奈良県内における発表を経験するのも一つのステップであろうと考え、また奈良県の学術レベル向上の目的を持って開催を提案し理事会承認を得た。以来今でも学会は続いている。当初、優れた研究に対してまた大いに努力の窺える発表に対して学術奨励賞を授与することを行い、多彩な発表の中で熱を帯びていたが、少Lずつ発表演題数が減少してきている。現在は学術奨勧賞を出さなくなったからとは考えられない。 本年度からはシンポジウムが取り入れられて新しいタイプの学会へと脱皮した近畿や全国への発表が定着してきているとも考えられる。しかし奈良県の学術研究レベルをお互いに知ることも出来、全部門の発表を一つの会場で聞くチャンスなどなかなか得られないと思うので、この意味から今後多くの演題が寄せられることを期待して止まない。
 会長の任を仰せつかった時、会員の求める活動を推進することとして、これまでを継承することは勿論であるが以下のことに留意した。

1)、他の医療職団体との協調を図ることに重点をおいた。社団法人として実施する事業に対して協力を得ることと同じ医療チームの一員としての立場で臨床検査技師を良く理解していただくことがチーム医療を有機的に展開する効果となり、患者さんに対するそれぞれの責任の果たし方を認識することが出来ると考えた。県民対象の講演会等の事業を開催するに当たって、各団体の後援を頂いた。県、県医師会、薬剤師会、看護協会、栄養士会、放射線技師会、理学療法士会、開催地の衛生部等々へ直接訪問して後援をお願いして歩くと共に、いろいろな話ができたことは、事業を興す上で大切な要素であると考えた。病院協会の藤木事務局長さんにも度々何って医療職団体が合同で事業を興すことの可能性や、方法論について相談に乗って頂いた。このことは結局実現出来なかったが、病院内における姿勢と組織同士の付き合いとでは侭ならぬところがあることを知った。

2)、県民対象の講演会を年1回開催することを始めた。最初の頃は臨床検査技師の名称すら”初めて聞いた“という方が多かったが現在では随分名前は知られるようになったと感じる。しかし、直接患者さんに接する業務が少ないため知名度は高まらない。これからは医療の中で各職種がそれぞれに大きな責任を感じ任に当ることの重要性から知名度も高まると考えられるが、認識がマイナス面で高まることの無いように責任を果たさなければならないと考える。

3)、技師会組織を有機的に機能させるために、各部局に対して積極的な運営方針をもって臨むことを要望すると共に、実務的な各種委員会を設定した。例えば生理検査業務拡大委員会を設けて、生理検査の業務拡大が認められたことを受けて、会員およげ各施設にとっても重要な、いかに取り込むかということを柱にして活動して頂いた。これは予想以上に難しい課題であって、現在もそれほど進んだとは言い難い。

4)、目臨技も会員システムの構築や各種情報公開の必要なシステムを開発していることから、各単位技師会としても足並みを揃えておくことが会員の利益に繋がると考え、奈良県におけるインターネットについて検討を進めることを要請した。

 仕期中の事業の想い出深いものに平成8年9月14日に社団法人設立10年創立40周年記念の事業である。法人としての体裁も整って奈良県の医療職団体との交流も深まったことを強く感じた。初めて知事表彰を受ける会員が出たことも特筆されるべきことであると思う。以後この記念事業は5年毎に行うことが適当と思われ、平成13年に法人設立15年、創立45周年を祝った。

【社団法人として】

 昭和61年に念願の社団法人を取得。社団法人とは「法律上の権利・義務の主体として認められた社団」であって、臨床衛生検査技師会は公益を目的とする非営利法人である。当会会則の第3条に・・・公衆衝生及び医療の向上、県民の健康の保持、増進、発展に寄与・・・と揚げてあるように会としての事業の中に積極的にこのことを取り組むことを考えなければならない。我々は検査展や講演会を通して展開し続けている。検査展の場合県民の関心が最も重要であり、苫慮することが多かった。昭和63年に大和高田市で開催した「エイズを正しく認識する為に」では人場者は非常に少なかった。タイムリーと考えた思惑とは外れ関心はあっても近寄り難いテーマであったことを反省している。平成6年から県民をも対象にした公開講演会を開催Lた。そしてその場で簡単な検査の紹介をすることで、小規模検査展を併せ持つ形になって悩みは半分解消した。
 医療の中で日常的こ良い関係を保つ意味でお互いを良く理解し、協力し合える間柄でありたいことから、医師会を始め各団体との交流を深めることを考え行動した。
 また、県より要請を受けて「精度管理専門委員」として、県が行う衛生検査所の指導監督が進められる中で委員としての役割もある。8年間委員を務めた。
 それから奈良県健康づくり財団の運営に当たり、当会から財団の理事及び評議員として参画する役割がある。こちらも会長の仕期中、理事及び評議員を務めた。

【近畿臨床衡生検査技師会】

 日本臨床衛生検査技師会は日本を8地区に分けて地区技師会の自主的活動を推進してきた。近畿地区の場合、7府県が参加し7000名の会員がいる。会運営には7府県から5名以内の役員が出て地区の活動こあたるものである。多くの会員は近畿という活動単位に対して認識が薄いと考えている。近畿学会が際立っていたのではないかと思う。近畿という単位は様々な事業で会員にとって非常に役立つ単性であると考える。専門毎の会員数と会場への距離を考えると意見を戦わすのに好都合な規模であると考えるからである。
 近畿医学検査学会(現在の名称)は7府県が持ち回りで開催を担当して進めるものであり、第4、10、16、23、30、37回を奈良県技師会が担当して開催した。私が参加したのは第10回(昭和45年)からで、最も印象的なのは平成9年に第37回近畿学会を奈良県で開催し、学会長をつとめさせて頂いたことである。何年も前に近畿理事会において、学会運営の在り方を検討する会を任命きれ近畿各府県の学術部長とも検討をしたが、大きな成果を得るに到らなかった。
 第37回学会に大さな柱の設定を打ち出した。学会は学術レベルの向上を目指し、今何が最も課題であるかをまとめ、全会員にその内容を知って頂き、それに続く研究を進めてもらいたいという一貫性を持った部分が必要であると考えることから、研究班単位のシンポジウムを止めた。研究班単位の活動はもっと日常的にこまわりのきくものが望ましいと考えていた。近畿臨床検査技師会学術部として全会員がそれぞれの分野で奉加できるような研修会、講演会を開催することが実のある活動になるとかねてから考えていたので賛意を得て、これまでの慣わしになっていたものの形をかえて、臨床検査技師にとって重要なテーマを設定し、各研究班がどう考えるかという全体の中でのそれぞれの役割を論じることとした。一方で一般演題を内容の似通ったものを数題ずつまとめてミニシンポ形式にして発表し放しにならない允分なデイスカツションのできる方式を提案して近畿理事会に諮った。賛否両論ある中でなんとかしたいと念じつつ踏み切れないでいた過去と比べて、一つの新しい考えにやってみようという暖かい理解を頂いて第37回近畿学会は開催された。会場として‘’万葉ホール”を使わせていただいたことも幸いであった。ご支援頂いた協賛各位と実務に当たって頂いた会員各位に心よりお礼を申し上げたい。
平成10・11年度は副会長を、平成12・13年度は会長を勤めさせて頂いた。近畿のレベルを高める目標に向けて、近畿圏の持てる力を結合して有機的に効果発規が期待できないかを考えた。学術、渉法それぞれの部会を作って直面する問題点や各府県の実情を理解し合い、将来に備えることを考えた。その中から活動が芽生えた時の為に理事会承認を得て予算付けをした。前述の近畿学会から外したシンポや研修会などの開催について、積極的に補肋を出してゆくような姿勢を取ることを訴えた。

【臨床検査の歴史と法改正運動】

 昭和31年衛生検査技師法が制定されそれまで病院や保健所、衛生研究所等において微生物検査をはじめとする検査を担当してきた先達が資格を手にした。免許は各都道府県知事の名において交付された。この法律が施行される時の通達(昭和33年12月22日付、厚生省発 衛525)として、各都道府県知事宛、厚生事務次官依命通知がなされた。その記第一の一般的事墳1において、次の通り示された。「この法律において衛生検査技師とは、都道府県知事の免許を受け衛生検査技師の名称を用いて医師の指導監督の下に衛生検査を行うことを業とする者をいうものであり、衛生検査技師でない者が衛生検査の業務行為を行うことは差し支えないが、免許を受けないで衛生検査技師の名称を用いることはできないこと。以下略」とある。尚、生体検査の重要性が増加してきたため、昭和45年に衛生検査技師法の一部改正により新たに衛生検査技師の資格制度が設けられた。この概要の中に業務についての解説はかるが、検体検査の業務については免許所有者以外の者に対し禁止することをせず・・・以下略。とそのままであるし臨床検査の多くの部分を占める検体検査を行うには資格を必要としないこ。医療の中で臨床検査は重要であると法制定時に謳っているにもかかわらず、名称独占の制度に止まっている。臨床検査を担当する者の評価がこれ程低い業種であることを、どれだけの臨床検査技師が知っているのであろうか。
 法改正運動も続けられているが一向に道は拓けない。国民の意見を聞いて世論を芽生えさせることが一つの道であると考える。会長の任期の後半において、公開講演会の席などで参加者に訴えてきた。何時の日か法制の場で取り上げられる時に力を貸して頂きたい。私達は医療の中でしっかり縁の下の力持ちとして国民の健康を守る一翼を担っているという自負があることをと。
 医療改革に伴う臨床検査の新たな道を自らの意志が充分に盛り込まれたものにしなければならない。自らの道の将来を他人任せにしてはならないと考える。全国5万人の臨床検査技師が真剣に考えなければならない時であることを知っていただきたい。
 すでに検査の分野に打ち込まれたコスト面での評価を落とし、縮小を余儀なくされてゆく現状など、現実面でその対応に追われて意見を述べる寸暇もないかも知れない。技師会という組織がこれを統一させる行動に出るためには全会員の積極的な参加が求められているところである。

【臨床検査技師の将来展望】

 今、医療をとりまく情勢がどんどん変化している中で、臨床検査は規制緩和も進められ、経済偏重の煽りを受け点数引き下げが厳しさを増している。また、DRG/PPSの導入も考えられており、医師はこれから先臨床検査をどのように利用して効率的な診療を展開すればよいのだろうか。このプランを提供するのが臨床検査技師であるといえる。クリニカルパスを展開するチームの中で、臨床検査が存在感を発揮できなければならない。真にプロたる実力を発揮しなければ、存在意義は薄い。臨床検査に求められる迅速かつ正確ということは、自動化の進歩の後押しを受けて大量且つ迅速処理と精度管理を通してまずまずのレベルに通することができた。これからはこのデータをもって個々の患者についてどう説明してゆくかということが考えられる。こうして今、臨床の場で力を発揮するチャンスが巡ってきた。ただ、目前のハードルの高さは、自らの医療人としての気質と、もてる努力によって感じ方が異なるかもしれない。しかし、ここまできたという実感がある。今こそ、自己改革を通して正道を築く努力の第一歩を印したいものである。
 医師があるいはチームが今ここで検査が必要であると考えた時には、直ちに検査が出来て判断を進めることが出来るようなシステムが作られて、臨床検査を有効的に利用する発想ができる姿を描いている。医師が振り向いたその眼に臨床検査技師がすでに必要な検査の準備を整えて待機している姿が映ったらどんなにすばらしいかと思う。

【おわりに】

 このたび大きな紙面を頂いて歩みを述べさせていただいた。
 私の勤めた病院では日本臨床病理学会(現:日本臨床検査医学会)が臨床病理技術士資格認定制度によって、二級、一級、緊急検査士等の認定試験を評価している。私もガス代謝の一級を認定され、院内における人工呼吸器のメンテナンスに関与するきっかけを与えられた。そして臨床工学技士のライセンスを取得する時の全体の評価として院内での認知が大きく作用したといえる。
 これからは専門学会と臨床衛生検査技師会の協議会で決定される各種認定技師の満ちが開かれることになっている。臨床検査技師に取得できるうってつけな資格もある。実力の伴った技師としての認知を得ることも医療における臨床検査技師の立場を強固にしてゆくことは目にみえている。研究会や講習会をやっていますという報告ばかりでなく、こんなこともできますという、自己啓発に裏打ちされた医療技師を目指す必要があるのではないかと考える。
 私はこの半生非常に恵まれた環境の中で存分に生かして頂いた。技師会活動は生果が充分でない点も散見することは否めないが、様々な角度から将来の姿を描きながら貫いたと考えております。
 会員諸氏および賛肋会員の各社からのご協力を多大に頂戴致しましたことを、紙面をお借りして衷心より厚く御礼申し上げます。