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趣味の世界 −「拓本」と私−

奈良病理診断サービス 奥本 隆

 若いころから何か趣味を持ちたいと考え、自分に合うと思われるものを色々やってきたが、そのほとんどが「中途半端やな−」で終わっている。
 その中で歌碑や句碑の文字を写す「拓本」という趣味は、もう20年以上も続いている。私が拓本を採るきっかけとなったのは、昭和48年に刊行された犬養孝監修の「山の辺の道の歌碑をたずねて」という一冊の本である。桜井市がその前年に山の辺の道を中心として、記紀万葉の歌から30数首を選んで、著名人に書を依頼し、その歌にふさわしい場所に歌碑を建立した。
 この本はこれらの歌碑についてのガイドブックで、拓本によって歌と書を、豊富な地図と写真によって現地の様子が楽しめるという非常に分かりやすい本であった。犬養氏はこの本の序文で「幸いに心ある方々が、本書によって、ひとつひとつ歌碑をたずね、草むらに、森陰に、水のほとりに、古代の歌ごころをよみがえらすよすがとされるならば、著者の喜びもこれにすぐるものなく・・・」と述べておられるし。当時拓本をやり始めていた私は、この本に非常に感動し、是非これらの歌碑の拓本を採りたいと思ったのである。
 私は湿拓法という方法で拓本を採っているが、これは歌碑に和紙を張り付け、その上から墨を付けたタンポで叩いて、文字を浮かび上がらせるというものである。刻まれた文字の1点、1画も抜けることの無いように和紙を押し込む作業やタンポの叩き方などの細かい作業があり、一つの歌碑の拓木を仕上げるのに30分ほどかかる。普通1回の行程で3つか4つの歌碑の拓本を採るのが精一杯である。拓本採りは気候に左右され、暑くなく、寒くなく、雨や風でない日が最適とされているので、1年を通じて拓本採りに適した日は限られて来る。当初すべての歌碑の拓本を採ろうと思ったが、色々な理由で、まだその全部を採りきれていない。現在桜井市の歌碑は60数共に増えている。
 いま私は拓本に関連した二つのことに熱中している。一つは、一昨年偶然手に入れたパソコンで淡路島−文学の森の歌碑・句碑についてのホームページを作り、昨年これに千里南公園の歌碑を追加して「真菅拓本館」としてりニューアルした。この1年間は「拓本散歩」というタイトルで、集中的に山の辺の道の歌碑について連載している。興味のある方は是非ホームページを訪問して頂きたい。
(ホームページのアドレス http://www1.nara-i.net/〜masuga)
 もう一つは、拓本などの掛け軸作りで、かなり以前より紙の裏打ち(拓木を採った和紙は裏へもう一枚の紙を貼り付けて補強する)を習っていたので、額装・軸装などをしたこともあるが、本格的に習ったことは無かった。ところがこれも一昨年、額装・軸装のプロ並みの人と知り合い、いま月1回習っている。早く習熟して自分で作れるようになりたいものと考えている。
 最初は拓本を採ることだけであった私の趣味が、このようにして少しずつ広がっていくのは嬉しいことである。最後に山の辺の道の歌碑の中で、その風景を合めて私が最も好んでいる井寺池周辺の歌碑の写真と拓本を掲載させて頂く。

歌碑の写真と拓本

 山の辺の道・桧原神社の西側にある井寺池の周辺にこれらの歌碑は建っている。池に通して西には国のまほろばと歌われた大和平野が眼下に開けており、近くに大和三山、遠くには金剛、葛城の山々が連なっている。

 

碑の読み

大和は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる 大和しうるわし
                     古事記・中巻 ヤマトタケルの命 作
                              書 一 川端康成

歌の意味

大和の国は国々の中でも最も良い国だ。重なり合った青い垣根の山々。その山々の中にこもっている大和は美しい国だ。

  

碑の読み

香具山は 畝傍ををしと 耳成と相争き 神代より かくなるらし 古も しかなれこそ うつせみも 妻も争うらしき

万葉集・巻1-13 中大兄皇子 作
                                                書-東山魁夷

歌の意味

香具山は畝傍山をいとしいとして耳成山と相争った。神代からこんなものだろう。いにしえもそうだったからこそ、今の世の人も妻を取り合って争うらしい。
(歌の意味は小学館-日本古典文学全集による)