県立奈良病院 音羽 裕子
私と持続天皇との.出会い。それはわが家から程遠くない本薬師寺跡に咲くホテイアオイの花を見に行った時から始まります。本薬師寺は、近鉄畝傍御陵前駅から東へ500メートルの所にあり、平城京遷都のおり、奈良市西の京の薬師寺に遷るまでの16年間、日本最初の本格的な都である「藤原京」の造営事業の一⊃として建てられていたということです。短くも重要な役目を持ったこの寺は藤原京の南西の角の近くにあったということなのですが、今は金堂や塔の礎石が残っているだけで往時を実感できませんく。しかし畝傍山を背景にいにしえの大寺跡にふさわしい面影をとどめています。
その周りの休耕田には春はれんげそうの花が咲き、入江泰吉氏(故人、写真家)の好まれた大和路の風景がひろがり、初夏には水草のホテイアオイが一面に薄紫の絨毯と化します。この涼やかな色からは悠久の時間を共感でき、NHKなどテレビでたびたげ放映されたせいもあって、にわか万葉ファンも含めていつも賑わっています。秋は真っ赤なまんじゅしゃげ(彼岸花)が古代への思いをかきたてますし、冬の、霜で覆われた朝には、遠方からの旅人が飛鳥路のきぴしい季節感を味わいに来られます。
なんと、約1300年前には日本の首都藤原京が橿原市のここにあり、しかもそれを造営されたのが持統女帝であったというのですから驚きです。ちょうど大和三山に囲まれた位置に造られ、天皇の住まいと国の政治を司る朝廷や役所があり、そこで政治の基本となる法律が制定され、最初の銭貨が発行されたかと思うと感動を覚えます。平山 郁夫画伯の描かれた藤原京と都の様子〔高耀る藤原京の大殿〕の絵を重ねあわせ当時を想像してみると、深緑の畝傍、耳成、香具山の大和三山の中に唐の長安を真似てつくられたという藤原京は、中枢部の藤原宮に、内裏、大極殿、朝堂院、朝集殿の建物が整い金色に耀き、京内は碁盤の目に区画され、その中に家々が建ち並び多くの役人や買い物をする人々が見られ当時の繁栄を窺い知ることができます。また飛鳥川が緩やかに平野を横切田畑の豊かな恵みを感じさせてくれます。百人一首にも出てくるあの有名な“春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ、天の香具山”の場所こそ藤原宮でありこの歌を読まれたのも持続天
皇なのです。
この持続女帝は、『血なまぐさい事件とかかわりの多い女性』といわれるように、日本古代史の中で、決定的な重大事件を生ききった女性なのです。私はどういうわけかこの女性に不思議な魅力を感じてしまうのです。それで、少し持統天皇について書かせていただきます。
大化の改新で有名な天智天皇の二女として改新直後に生まれ、13才で父の弟である叔父大海人皇子(後の天武天皇)の正妃となり壬申の乱では、俗っぽい表現をすれば『父を捨て夫を採る』という人生の最高の選択をしたのでした。夫である大武天皇の良き協力者となり、そばにいるときはよく政治問題を語り合い天皇を補佐することが多かったと 『日本書紀』に書かれています。天武・持統夫妻は時を見る目を持った冷徹な判断と実行力の持ち主である一方ウィットのある会話を楽しむ朗らかな仲のよいカップルだったようですく。その皇后(後の持続天皇)が病気になられたおり、天武天皇がこの本薬師寺の建立を発願され、あわせて百人を得度して僧としたその功徳のためか、皇后の病気は翌年に治っていると書かれています。しかしその完成を見ないうちに天武天皇が崩御したので持続天皇がその遺志をつぎ、完成されたといわれているように、理想的な夫婦だったと推察せられます。天武天皇が崩御されるや、一変して母親としての執念に燃え、我が子草壁皇子のライバルである実姉の子の大津皇子が、草壁皇子より5才年長者で、才学に長じたことを恐れて、謀反の疑いありとして死に追いやるという、我が子を思うゆえの愚かな母の顔も持っています。ところが皮肉なもので、病弱な草壁皇子が早逝し、ひとり子失うという大きな打撃をうけるのですが、孫の軽の皇子(後の文武天皇)に政治を引き継ぐまでは冷厳な手腕を見せつづけた気丈な女性でもあったのです。
本薬師寺跡に立ち南東の明日香の方に向かい、スケールの大きい政治感覚を持ち、歴史に残る女性の中でも稀な資質の持ち主だった持統天皇を偲ぷ時、もし彼女の人生のそれぞれの決断の時の賽の目が少しでも違っていたら運命はまったく変わっていたかもしれないのに、危うい橋を確実に渡りきって常に勝利を手にしたところに私は不思議な魅力を感じます。また宿命といわれればそれまでですが古代のミステリアスに少し浸るのも楽しいものかなとも思うのです。しっとりと朝露にぬれた金色に揺れる稲田のマイナスイオンを感じながら、時空を超えて万葉人にタイムスリップするのは現代人には癒しの時間かもしれません。私はダイエットを兼ね飽きることなく、この『歴史の散歩道』をウォークし続けていきたいと思っています。