「長田での出来事」

奈良社会保険病院   片 岡 通 子

奈良に仕事の為に住む様になって5年が経とうとしています。 私は健診車勤務が多く、 バスに乗って県内の事業所を転々と回っているのですが、 バスの窓から見える四季折々の景色は、 「いにしえの奈良」 という言葉を思い出させてくれる程に素晴らしく、 心を楽しませ穏やかにしてくれ、 今、 とてもいい所に住んでいるのだなぁと思わせてくれます。
 私の生れは丹波なのですが、 神戸の長田区に4年間住んでいた事があります。 短大に親戚の家から通い、 途中で一人暮らしを始めてそのまま就職しました。
 長田は人情たっぷりの下町で気さくな人だらけ。 私はその中にどっぷりとはまり込み、 多くの人のお世話になっていました。
 学生の時、 近所の中華レストランでアルバイトをしていた事がご近所付合いの始まりでした。 風邪で寝込んだ時、 「お弁当作ってきたから食べや。 」 と、 高校生の女の子がお見舞いに来てくれた時は感動しました。 「忘年会するからおいで。 」 と自分の親ぐらいの年の女性から誘われて厚かましくも参加してみると、 その方のご近所さんを集めての忘年会であった時は驚きました。 他にも、 年齢、 国籍、 職種等を気にする事なく、 色々な場面で関係しながらそれらの方々と接してこれたのは、 私の財産となっています。
  「素敵な人と出会えるのよ。 」 と京都のすずむし寺のお守りと、 「片岡さんの分。 」 と長田にある駒ヶ林神社のお守りを頂いた年、 阪神・淡路大震災に遭いました。 自分の死を覚悟し、 死にたくないと涙を流した事を今でもよく覚えています。
 激しい振れがおさまり、 閉じていた目を開けた時、 部屋全体の様子を見る事が出来ました。 その時、 マンションの4階に住んでいたのですが、 カーテン越しに外の明かりが部屋の中に入ってきていました。 カーテンを開けると目の前で火事が起こっていたのです。 長田の町の至る所で大きくなりつつある火事を見る事が出来ました。
 急いで逃げました。 あまりにも急ぎすぎた為、 靴を履くのも忘れパジャマのまま外に飛び出していました。 そこは、 電線は切れて垂れ下がり、 木造家屋がぺしゃんこに潰れ、 道は倒れてきた家や柱でふさがれ、 破裂した水道管から水柱、 臭ってくるガス臭。 どれもこれも信じられず呆然と立ち尽していました。 「これから長期戦になるから、 そんな格好でおったらあかんで。 服に着替えておいで。 」 この言葉で我に戻りました。 知らない男性が声をかけてくれ、 そして一緒に私の部屋まで荷物をとりに来てくれました。 半分倒壊したマンションの階段を戻っていく途中に大きな余震に遭いました。 炎が近くに見えます。 「長期戦になるから…。 」 の言葉が頭から離れません。 ジーパンとセーターに着替え、 コートを羽織り、 そして、 かばんに目覚し時計、 財布、 通帳、 印鑑、 それに頂いたばかりのお守りを入れ、 近くの小学校へ避難しました。
 丸一日で長田の町は焼えてしまいました。 焼野原の中に黒くすすったコンクリートの建物がぽつんぽつんの散在している町になってしまいました。 恐ろしい光景でした。 私は沈火直後のまだ火がくすぶっている町の中を友人と歩きました。 人の群れに会ったので、 野次馬的な好奇心から何があったのか聞きました。 「このアパートから遺体を運び出している。 」 との事でした。 8体の毛布に包まれた遺体を目にしてしまいました。
 あれから6年の月日が経ちますが、 私は長田の町の自分が住んでいた所、 その周辺を訪れる事が出来ません。 近くまで寄っても足を踏み入れる事なく帰ってきてしまいます。 自分でも理由はよく分らないのですが、 多分、 震災後、 一緒に戦う事なく長田を出てしまった後ろめたさがあるのだと思います。 避難所での生活や友人の家を点々としながら、 その年の3月末まで神戸で働いていた事を―貴重な体験―と思っている自分がはずかしいのかもしれません。
 最後に、 あの年に頂いたお守りは、 我が家の宝物になっています。 私の命を守ってくれたお守りとして母親が大切に保管しています。