旅行記

私の海外旅行録

天理よろづ相談所病院 高橋 秀一

 私がパスポートというものを手にしたのは4年前で、それまでは旅行といえば国内が専門だった。北は利尻・礼文、南は石垣・宮古島まで行った。と言えば格好良いが、大好きな北海道はほんの一部を残すのみであるが、まだまだ行っていない所も随分あるのが実情である。もともと、結婚した時に年に1度は旅行をと約束しそれをなんとかクリアーしてきた。予約なし、行き着くところで宿を探す自家用車旅行も色々した。実に楽しいものだった。ところが、我が家にも突然、海外旅行の波がやって来た。家内の高校時代の恩師がハワイに居る間に「遊び&同窓会でハワイヘ行こうツアー」が企画、実施されようとした訳である。もちろん、すごく良い企画で即参加OK宣言を出し(もちろん、私も参加する予定で)、早速パスポートを申請した。これ以来、不思議なもので旅行となると海外へと興味が湧き、最近の旅行企画は海外になってしまった。旅行記は一旅行に絞ろうとも思ったが、一旅行にこだわらず7回の旅行のうち心に残ったこと、伝えたいことを書きたい。キーボードを打つ手がそう言っているので誌面をお借りするとともに、少しお付き合い頂きたい。

♪♪
この木なんの木 気になる木名前も知らない木ですから
名前も知らない 木になるでしょう
この木なんの木 気になる木見たこともない木ですから
見たこともない 花が咲くでしょう

皆様ご存知ですね、この歌。そう日立のCMソングで『この木なんの木』。テレビを見ていて、すごい樹だな〜。見てみたいな〜って。そう思いませんか。実はこの樹、アメリカ合衆国のハワイ州オアフ島、モアナルア・ガーデンパークというところにある。名称は、MONKEYPOD/モンキーポッド、学名はSAMANEA SAMAN/サマネア・サマンという。枝の裾野の長さは約40m、樹全体の高さは25m、樹齢は120年と教えられた。やや遠方から全景をみるのが一番、やはりテレビCM画面どおりでみるのが綺麗であった。近くによると大きく広げた枝の葉はシダに似た形をしていた。樹を目の前にしてその素晴らしさと雄大さに感動したのは勿論だが、なんのへんてつもない道路を行く間に突然見えにくい位置に「MoanaluaGardens」の標識があり、その公園に 『この木なんの木』があったのがピックリものだった。ワイキキから路線バスで簡単に行くことが出来、近では観光バスツアーもあるらしい。ハワイに行ったら是非とも見に行って欲しい逸品だ。(1999年2月訪問)

 世界遺産、2002年7月現在世界各国で合計730件が登録されている。ここ最近になって旅行のパンフレットを見ると 『世界遺産』の浮きだし文字がやたらと目につく。この現象は日本だけなのだろうか?例にもれず私もこの『世界遺産』訪れたいと。日本では11件の世界遺産が登録されているということご存知だろうか?当然、我々の住んでいる所は古都奈良。身近にもあるハズだ。
 調べてみると、法隆寺地域の仏教建造物(法隆寺、中宮寺、法起寺、法輪寺)と古都奈良の文化財(東大寺、興福寺、春日大社、春日山原始林、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡)の2件が登録されていた。 車で行ける範囲のすぐ近くに世界遺産がありながら訪れる機会が無く(作らず)、送られて来るダイレクトメールのパンフレットの海外編についつい目を向けてしまう。
 世界遺産、行きたいところの一つ目は中国の『万里の長城』だ。おそらく、世界遺産の筆頭格だろう。月らでも見えると言われている長城は中国の北部に位置し、東の山海関を起点、西の嘉峪関を終点として、長約6700キロ(1万3400華里)におよぷことから、万里の長城という通称ができた。私は、北京からパスで観光地として整備された玄関口である八達嶺から長城へ人った。実際に行ってみて、歩いてみて思うことは、北方の外敵からの防御のために作られたとはいえあまりにも壮大すぎる。それよりも、ほほ完全な形で保存されていることに感動した。紀元前221年中国を統一Lた秦の始皇帝が命じて建造された長城を歩き、どんな頭の建築家がこんなことを設計したのか、驚きとため息(息切れが正解かも)だけが残った。
 長城の築造は二千年以上も続いたという。起伏の激しい山々、谷、河を縦横無尽に続く様を見ると歴史の重みそして、過度の労働をしいられたばかりではなく多大な事故犠牲者を生み出したであろうことを思うと観光気分で写真やビデオを撮る手をしばし止めて、じっとこの遺産を目に焼き付けた。(2003年3月訪問)

 二つ目は、エジプトの遺跡群(ギザの3人ピラミッドとスフィンクス)とギリシャアテネのアクロポリス(パルテノン神殿)である。いずれもゆっくりと訪れたい遺産であるが旅行日程と私の休暇予定が合致するものがなく、あえなくこの2つの遺跡を含むちょっと忙しい旅行を申し込んだ。
 エジプト航空直行便でカイロヘ。さすがに夏のエジプトは暑かった。それよりも驚いたのは、武装警官の多さであった。路地のいたるところに銃をもった制服姿の警官達がいた。観光バスも、銃を持った警官が乗っていないと走ってはいけないという法律があるらしく、我々のバスの最前列にも現地係員と横には警官が同席していた。そんな緊張の中で観光がはじまった。エジプト考占学と聞けば、日本では早稲田大学の吉付作冶教授を思い出すが現地人ガイド(日本語が上手なエジプトの人)アリさんも吉村教授絶賛派だった。カイロのホテルから市街地を抜けるとピラミッドが遠くに見えてくる。だんだん近づくにつれ、古代にタイムスリップしたかのような気持ちになってきた。
 現在80数基のピラミッドが確認されているが、有名なのはギザの3大ビラミッドである。3つのピラミソドは、紀元前2600年頃に栄えた第4王朝のクフ王、カフラー王、メンカウラー王の墓といわれており、中でもクフ王のピラミツドは大きさ、形ともに群を抜いていた。底辺の長さは230m高さ146.6m(現在は頂部分が欠けていて137m)で使われている石の数は250から280万個、総重量は650万トンの説明にもピックリしたが、さらにピックリはピラミッドの4つの斜面は、極めて正確に東西南北を向いており、その平均誤差は1度の1/20しかなく、カフラー王とメンカウラー王のピラミッドもかなり正確だが、その正確さはクフ王のピラミッドには及ばないとの説明であった。古代の王様は偉人だったのだろう。でも、それをきちんと建造した人々とりわけ現場監督さんは、天文学者だったのだろうか。 ピラミソド中部に入り口がある。カメラ、ビデオの持ち込み料(ビデオは結構高かった2700円くらいだったかな)を事前に支払って、ピラミソド内部に入る。非常に細く急な板張りの階段が長く長く続く。中腰状態で蒸し暑い中を黙々と進むだけだった。匂いもある。学生時代の夏の運動部部室を思い出させる香りだった。ビデオなど撮る気にもならない細臭い通路だった。やっとひらけた空間そこが終点で、大きな石棺が鎮座してあった。それだけ。あまり気が進まなかったが中腰状態で苦労して歩いてきたこの目的は遺跡であるこの石棺ということを自分に言い聞かせ、カメラを向け税撮った。悔しいので帰り道では細い通路でもビデオに撮った。次は、スフィンクス、我々がいう「スフィンクス」はカフラー王のピラミッドに続くものであると教えられた。ピラミッド・コンプレックスとよばれ、河岸神殿、参道、葬祭殿がほぼ完全揃っており、その中央全面にスフィンクスが鎮座していた。3大ピラーミッドの偉大さに感動した直後てあったが、正面からの初対面の瞬間「やっぱり、エジプトに来ているんだ」それが簡単明瞭な気持ちだった。後日、エジプト考古学博物館でツタンカーメンの黄金の品々を見たがあまり感動はなく、やはり博物館ではなく自然のままが良い、それに尽きると思った。日程3日目はギリシャに。この旅行のもう一つの目的であるパルテノン神殿に会える、そんなワクワクする気持ちでアテネに着いた。実は、ヨーロッパに訪れるならまず一番に、パルテノン神殿。広大な神殿に立ち大きな伸びをして「あ〜〜っと」言ってその雄姿をパノラマで見たい、これが私の信条だったのである。期待どおりの光景が山の麓から見えるがどうもおかしい。クレーンの櫓が突き出て見えるではないか。なんとも残念な気持ちのままパルテノン神殿に向かった。私が長年思い続けていた神殿、確かにアクロポリスの丘に建ちアテネの街を見守るようにそぴえ立っていた。復元作業のためのクレーンはあったがなんか感謝の意にかわってしまった。しっかりこの遺産を守って欲しいと。(2001年9月訪問)

三つ目の世界遺産は、イタリアのコロッセオである.ここだけを訪れるというような贅沢な旅はできないので北イタリアのミラノからローマまの旅行を申し込んだ。ミラノからローマに行き着くまで長かった。しかし、道中訪れたミラノのドゥオーモ、ヴェネチアのサンマルコ大寺院とゴンドラ遊覧、ピサの斜塔、フィレンツェのウフイッツイ美術館など数々の驚きそして感動を与えてくれた。 世界遺産のピサの斜塔は、思った以上に傾いていて20世紀中もてば良いと言われていたそうだがなんと後ろからワイヤーで引っ張っていたとは行って見なきゃ判らないことだった。
 ウフィッツイ美術館訪問、この旅行の2番目の目玉である。絵画音痴の私でも知っている絵画がたくさんあるからである。とにかく毎日入場には長蛇の列ができるらしく、我々も朝早くからホテルを出発し並んだ。待つこと約1時間やっと入場、知ってる(本でみたことがある)という本物の絵画を目の前にして鑑賞そして、忘れず写真に撮った。ボッテイチェリの 『受胎告知』は、大天使ガブリエルが突然マリアの前に現れ「あなたは男子を産むでしょう。イエスという名前をつけなさい」と告げると同時に懐妊するといったエビソードを元に書かれた絵とか、奥深い絵画であった。もっともポピュラーなものはボッティチェリの『ブイーナス誕生』、ティツイアーノの『ヴィーナスと子犬』だろう。帰国上して写真を現像してみるとなんとそれだけで6枚もあった。さあ、いよいよ最終コースであるローマ入りである。アッシジを経由して午後ローマに到着した。コロッセオとのご対面にハイテンションな気持ちは最高潮に達した。「グラディエーター」、古くは「ペンハー」、このコロッセオが舞台の映画である。コロッセオの付近には剣闘士姿の面々がおりあたかもボランティアのように写真サービスをしていたが、一緒に撮ったあとしっかりと料金を請求していたのには興醒めした。
 コロッセオとは、市代ローマ帝王期のヴェスパシアヌス帝が紀元72年に着丁し、80年彼の息子ティトス帝により完成された楕円形の闘技場の通称で、長辺187m、短辺155m、高さは48.5m、収容人員は約5万人と説明があった。当然、大きすぎて全体像は写真には納まりそうもない。入り口は2階、そこからは地下から4階まで全体が見渡すことができ、ついにコロッセオの中身をみることが出来たのである。剣闘士や猛獣、囚人を収容していたという地下室は、1階部分大理石張りの貴賓席がほとんど残っていないためよく見えた。外観からも見える各階ごとに違った様式で建造されたアーチは内側からみるとことにより一層、その違いがわかる(わかったような)気がした。ちなみに、説明では1階はドーリア式、2階はイオニア式、3階はコリント式とか。何か中学・高校時代の歴史や地理で教えられたかな。
 最終日は終日フリータイムで、イタリア語早わかりの本と、ルルブを片手に「トレピの泉」、】真実の口」、お隣のバチカン市国など徒歩とタクシー、地下鉄を利用しながら訪れた。そこで、イタリア人は陽気で世話好き、身をもって体験した。
 トレピの泉を見たあと、ルルブによると国家政庁で衛兵の交代式があり午後3時と書いてあったので地図をみながら歩く。中々それらしい建物がこ現れないので、道行く人に勇気を出して本を見ながらイタリア語で聞いてみた。両手を挙げて、何を言っているんだとのジェスチャーをしたかと思うと、本を取り上げ彼が発言(発音)した。私のイタリア語はどうもイントネーションが違うらしい。
 何度か繰り返し発音の練習をさせられやっと指先が向いた。パック旅行でも、選ぷならフリータイム付きをお勧めしたい。意外な体験や新たな感動をきっと経験できる。ローマは、本当に書き尽くせないほど遺跡と感動が多かった。(2000年7月訪問)

 最後におまけ。今年の旅行はカナダ、なんといっても世界遺産ではないが「ナイアガラ」である。残念ながらナイアガラは雨だったが、上からの眺めは壮大な水の流れに引き込まれそう、反対に霧の乙女号からみた瀧ツポ付近はしぷきだらけで撮った写真は1枚も満足するものはなかった。好天に恵まれたローレンシャン高原散策の紅葉(メープルリーフ)はすばらしいものだった。ところで、アンモナイトは化石として有名だが、その化石であるアンモナイトの虹色の貝殻部分が石化しもの、準宝石とされている「アンモライト」ご存知だろうか?なんとも実に美しい輝きで、立派なアンモライトのプチベンダンドはカナダ女性の中では母から娘へと受け継ぐ習慣があるほどらしい。これを聞いて、買わない手はない。美しさに魅了されながら、気に入ったトップのアンモライトを探す。
 瞬間マジックに掛かったのだろうか?気がつくとクレッジット用紙にサインをしていた。そこには約2000カナダ・ドルの文字が。それだけの価値はあると自負して帰国した。まもなく竹中ショック。クレジット引き落とし時、カナダ・ドルはいったい何円になっているやら。(2002年9月訪問)